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村上宥快和尚さん説法「人間とプライバシー」

村上宥快和尚さん【1918年(大正7年)10月8日〜1991年(平成3年)3月12日・享年72歳】のお話をまとめました。

仏教関連の雑誌や新聞への投稿記事です。

人間とプライバシー

四諦八正道の実践を、エゴを除くフィルター

この世に何のために生まれてきたのか、どんな使命と目的があるのかも知らずに、スキャンダルやゴシップ、プライバシーの果てまでをあばきたてて週刊誌を悪用し、知る権利とかいう新語をやたらに振り回して横暴を極めている輩が少なくない。

法律をくぐりぬけて悪用する人々がいるが、このような人々を厳格に取り締まらないと、法律は細分化され益々複雑化される。すでに法律倒れの一歩手前まで来ている。

ことに最近、宗教の退廃がひどくなってきている。宗教も金儲けの手段として合法的に悪用されつつある。あの世の存在は全く忘れられ、刹那的な思想が横行して、宗教人さえ転生輪廻を無視する有り様である。

釈尊の教え、四諦八正道を忘れ、枝葉末節に捉われ、己の心を忘却した存在までなり下がった。仏果がなくなってしまった。

仏果とは – コトバンク

仏教は己の存在の自覚である。知自心である。かつて友松円諦氏は真理運動を提唱された。真意は阿含経などによって仏教の原点に還る運動だったと思う。この運動原理は解るが、四諦八正道の実践を忘れて仏教も仏法もありはしない。

友松 円諦とは – コトバンク

四諦は苦集滅道、苦を滅するには八正道の思惟によって反省するしかない。天台の摩訶止観、真言の禅那と正思惟も釈迦の正法から出ている。釈迦の教えは、己の心を静視(坐禅)して己の心のエゴや執着を発見して心を修正することにある。無念無想などになり得るわけはない。

私たちの生命は宇宙意識生命から派生している生命体である故に死はないのである。宇宙生命を神と呼称している。

それ故に私どもの生命を精神と申し、感覚を神経というのである。昔から人間を神の子、仏の子という所以はここにある。

私たち人間の心は神の心の入り口である。他に神を求めても無いはず。自分の心が神の心の入り囗だから、己を自覚する外ないのである。ただ自分の心の入り口を煩悩の曇りで塞いでいる。この曇りは神の心を遮断しているため人間は盲目となり悩み苦しむのだ。この悩みはプライバシーという自我意識によって造り出されている。それ故に煩悩即菩提ということになる。

私たち神の子(人間)は、あの世からこの世に出て心の修行をする。あの世は何でもオープンの世界で90%(9割)の意識で活動している。

その人その人によって、過去の修行の成果によって次元は違うが、その人なりに90%(9割)の表面意識が働くため、あの世は思うままが行為となる世界である。故にあの世では厳密に申して、修行は不可能といっても過言ではない。

私たちの意識は素っ裸であるから、それに引き換えて私たちは肉体物質に乗らなければこの世、三次元の世界に出られない。いわば肉体は意識の乗り舟である。私たちの意識が物質の乗り舟に乗るとどんな変化があるか。

私たちの意識は10%(1割)に変わるのだ。そうすると他人に自分の意識はみられることなく自分の意識を修正することができる。

私たち神の子人間は魂(心)の修行によって、魂の進化を図るために、この世に転生し、一時の修行が終了するとまた輪廻してあの世に循環してゆく。これを無限に繰り返しているのが人間の宿命というものだ。そしてその使命は、この地上界にもユートピア仏国土を建設する。

これが神の意志の具現である。宗教の本質は心の思惟である。それが神理という宇宙の摂理である。釈尊やイエスキリスト在世の当時、経文もバイブルも無かったはず。

これらは後のち釈尊の教えやイエスの教えを言い伝えたものを文章化したものであるから、その教えを理解して行なうことが本質である。この最も大切な行ないをしないで経文やバイブルを読んだだけで悟ることができたら大変結構なことだ。

が、知っただけでは絵に画いた餅と同じことになる。私たちの意識で造り出す煩悩即ちエゴや執着は癒らないのである。自己の内心で造り出す、人にいうにいわれぬ心が、プライバシーである。

プライバシーの中身のエゴや執着は誰でも持ち合わせているし造り出しているものなのだ。プライバシーの中身はあの世ではオープンなのだ。

あの世ではなかなか修正はできないから、この世に出て来て10%(1割)の意識の状態から他人に見られることなく癒すことができるのが、この世に出て心の中を修正するものなのだ。

そのかわり悪いと気がついたならば即座に修正し、再び犯さぬことが神から許された自由なのだ。マスコミなどによって興味本位にあばき出すことこそ邪道である。夫婦の間柄であっても詮索すべきものではない。お互いに温かくいつくしみ合わねばならない。

これがプライバシーというものである。

坐禅の本質は無念無想ということではなく、思無邪、静かに自己の想念の中のエゴと執着をとり除くことにある。

坐禅の勘違いはこの辺にポイントがあるようだ。釈尊の八正道はこのことに対するフィルターであることを知って自己の意識の働きを観察するものなのだ。〝禅天魔〟とは、心の中を空虚にすることによって、魔界から飛び込まれたり、心を占領されてしまうことをいっているのである。

仏道修行の真意は、人には嘘をつけても己の心に嘘のつけない心で、吾が心を正すことにあると思う。

八正道の理解と具現

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村坂 克之

小又接骨院・鍼灸院の院長です。鍼師、灸師、柔道整復師の国家資格にて治療を行っています。屋号の小又(こまた)は、先祖の小谷屋亦治郎(亦=又)に由来します。親指シフトユーザー。
詳しくは院長略歴をご覧下さい。