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村上宥快和尚さん説法【八正道の理解と具現】中道の道(第1回/全11回)

村上宥快和尚さん【1918年(大正7年)10月8日〜1991年(平成3年)3月12日・享年72歳】のお話をまとめました。

【中道の道】

中道の道とは、自分を愛し人をも愛する事です。

自分を愛する事は執着ではありません。神性の自分を自覚すると、自分を愛さずにはいられないはずであります。

人の心は人類の数ほどあると思うでしょう。しかし人の心は一つしかありません。

映画や芝居を見、小説を読んであなたは悲しい場面で笑いますか、楽しい場面で泣きますか。違うでしょう。人の心は一つに結ばれているからであります。

それは何故かというと、私たちの心の原点というものは神の心なのです。神の心から誰しもが霊子線という光のドームによってコントロールされています。

これが私たちの心が一つであるという事であり、神の心を通して、自分の心というものを自覚する方法なのであります。

自分を愛するとは、すなわち人を愛する事です。他を生かし自分も生きる事なのです。

心は一つですから、自己愛は自他愛につながらなければならない性質を持っておるのです。

この自利自他という事は、自分自身も他人も本来は神の子でありますから、ここで人を憎むのも人に憎まれるのも、この時に私たちは人に憎まれても決っして反作用という心は作らないことが大切な訳であります。

他を生かし自分も生きる事です。心は一つですから、自己愛は自他愛につながらなければならない性質を持つものなのであります。

苦しい悲しいという心は、自己本位の我欲が先に立つのでそうなります。

自己本位の我欲は一方が楽しい時は一方が悲しい時です。この地上に争いや混乱が絶えないものは、こうして相対的な心が支配するからであります。

普段私たちは、人の喜びを自分の喜びにするという事は非常に難しい事なのです。

相手が、意志が対立する人や何かというものは、人が苦境に陥った時にそれをあざ笑ったりするという事は、日本人の仇討ちと全く同じであります。

敵という事は、それ故に自分の悲しみも人の悲しみも一つにできない、この自他の差別を持つ心であります。

中道とは相対の考え方、思い方から離れる事であり、みんなが楽しい調和された生活ができるような道であります。

八正道の一つ一つの規範は大自然が教える法のあり方、中道の生き方を教えるものです。恵みを与え、悲しみを取り除いて、慈悲の心で他を生かし助け合う愛の行為を行ずる事が中道の道であり、八正道の目的であります。

八正道を毎日の生活に生かしていきますと、心の様々な動きがわかり、やがて人の心の動きもわかるようになります。

これはやはり皆さんは、自分自身の心がわからないと、なかなか現象の大きな動きというものがわかりません。自分の心を深く掘り下げ、拡大していくところに、自分という者を知るという事が、とりもなおさず私たちがこの中道の心を実践する事であります。

これを如心にょしんといいます。如とは法であり、法とは正法です。正法とは大自然の正しい循環の姿であります。

ここにもやはり転生輪廻という循環がつきまとっているのです。人を憎めば憎しみが返って来ます。善を思えば善が返ってきます。作用と反作用と物理法則は万象万物のすべてに働いています。

従って正法を行ずるとは、善を思い、善を行なう生活であります。すなわち慈悲の心、愛の行為をする事が、正法に添った生き方となる訳であります。

正法は神の心を軸として動いているので、法を理解するとは神の心に近づく事であり、神の心をこれも理解する事に他なりません。それはまた人々の心を理解する事につながります。

従って八正道を行じ、如心の境地に達すると人の心が手に取るように分かってしまうようになる訳であります。

如心に至ると守護霊・指導霊と通じ、そうして神の心が放射されてくるので、心は安らぎ知慧も湧いてくる事になります。

そうすると物事に脅え、恐怖におののく事はなくなり、正法というものを真に会得する事ができるようになります。八正道にはその功徳があるのです。

八正道を日常生活に生かしていこうとする時、努力と勇気が必要となります。

それは反面からいえば苦痛かもしれません。正法は自力であり、善なる正しい心で生活をしてゆこうというものですから強い意志が必要になってきます。

本来はそのような強い意志は必要ないのですが、旧来の習慣や思想の中で生活をしてきたのですから、いわばその軌道修正の為、強い意志が必要になってくるものであります。

真に、あなた自身が安らぎを求め、人々との調和ある生活を欲するならば、八正道を実践してみる事です。

八正道を体得する事によって、あなたはこの世だけではなく、この世の十倍・二十倍の長きに渡る、あの世での安らぎある生活が保障されるのです。

疑わず、まず実践してみる事です。正道を学ぶ事はすなわち法を学ぶ事で、すべてのよりどころは法にある事を確信する事が肝要であります。

己の心を信じ、神仏の心を信ずる反省の生活実践、八正道は八つの規範に分かれていますが、その一つ一つはすべて己の心に問う、聞く事が大事であります。

我々は反射的に物事を見た時に、ただ頭だけで頭脳だけでこれを判断するという事は大きな間違いであります。
 
この八正道を、己の心を信じ神仏の心を心とする反省の生活の実践。八正道は八つの規範に分かれていますが、その一つ一つはすべて自分の心に問うことです。

私たちの生活というものを、ただ知識で知ったからそれで良い、というような考え方であったのでは八正道を勉強する事には当りません。

私たちの心というものはすべてのこの条件に通じています。

正見という事は正しく見るとこです。これは見る心をまず養わなければならんという事なのです。

鏡を見てごらんなさい。鏡という物は、精密な鏡であればあるほど正しく物を映し取る事ができます。

私たちの心もまた同じであります。

この私たちの心も精密な心でおれば正しく物を見る事ができますが、邪な心を持っておったのではこれを正しく見る事は不可能でございます。

それは「鏡を見る事、我が心を見るがごとし」なのです。

これは日本の国是に等しいあの八咫鏡(やたのかがみ)の言われているのは、本来は神様の心と自分の心が一つであるという事を意味しています。

正しく見るという事は、その基準というものが、自分の心は、いわゆる神の心から生じているという自覚がこの条件にならなければなりません。

1989年(平成元年)10月「心のつどい」東京研修会より
編集:飛騨高山心のつどい

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村坂 克之

小又接骨院・鍼灸院の院長です。鍼師、灸師、柔道整復師の国家資格にて治療を行っています。屋号の小又(こまた)は、先祖の小谷屋亦治郎(亦=又)に由来します。親指シフトユーザー。
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