結果を出す手技療法のパイオニア

村上宥快和尚さん説法【八正道の理解と具現】正しく見る(第2回/全11回)

村上宥快和尚さん【1918年(大正7年)10月8日〜1991年(平成3年)3月12日・享年72歳】のお話をまとめました。

【正しく見る】正見(しょうけん)

正見。正しく見る。

正しさの基準は何かというと公平であるという事です。その公平はどのようにして得られるのでしょうか。

それは常に第三者の立場に立って物を見る事です。

客観的な物の見方、これが私たちの公平な見方であります。第三者の立場で自分の心を見、相手の心を見るという事でございますから、それは常に第三者の立場に立って物を見る事です。

自分中心に物を見るからそこに偏見が生まれ邪見になってゆくのであります。

すなわち正見の反対は邪見です。

邪見は心のわだかまりであります。自我我欲、自分中心から生まれます。心のわだかまりはどうして生じてきたのでしょうか。

それはこれまで生活をしてきた環境、習慣、教育、思想などによって毒されてきたのであります。

とりもなおさずこれはどういう事かといいますと、私たちの心自体でものを見る事なく、自分の五官機能だけで感じてそれをすぐ自分の心だと思い込んでしまうところに間違いがあるのです。

ですから私たちは仏教思想などという事をいいますが、仏教は神理であり思想ではないのでございます。

現在の環境というもの、あるいは習慣というもの、教育というもの、この教育・思想・環境・習慣、これは五官機能でそのままこの感覚もなく、受け入れる条件で物を考える事によって生じてくるのです。

従って物を正しく見よう、公平に見ようとするには、これまでの既成観念を白紙に戻し、全く新しい立場から物を見るよう努める事であります。

だから今迄の私たちは、ある物を見て、あの人はこういう行動をしたからこうなのだと決めつけてしまうでしょう。

そうではなく、私たちはその行為や行動が本当に相手を思ってやった事であり、相手を考えてやった事なのかどうか、自分の心に問うという事がなかなか人間は出来ないものであります。

ですから既成観念を白紙に戻すということです。

今迄はこの五官機能で映って来た物を評価してきましたが、我々は今、心でこれを評価してゆくことなのです。

自分がこうして、相手がこういう風に思ってくれた事でも、曲解する場合が生じてくるような事があるとすれば、これはただ五官機能だけで受け入れたからであります。

感謝について、年が進むにしたがって物に感謝する心が失われてきます。

全てが当たり前に動いており、感謝や感動の心は湧いてこなくなります。しかし物に感謝出来ない心はもともと、どのあたりから生じてきたのでしょうか。

誰しもが子供の時代がありました。

子供の時は両親からかわいがられます。両親は子供のいう事なら大抵の事は聞いてくれます。

近頃は過保護となり、親は子供の事となると夢中になってしまいます。現在の教育もそうした条件が全ての条件に流れておるようでございます。

自分の家の子供は、これは外国では悪いと思ったら他人でもよその子供でも注意をするそうです。

これはアメリカあたりでもよくある事なのですね。しかし日本は自分の家の子供が注意されると頭にきてカッカするのですね。こういう事は良くない事です。これは一般的に日本人の良くないところです。

我儘を通してくれるという事から、子供の心は成長するにしたがい次第に物に感謝する心を失っていきます。

学業を終え、「社会に出ても仕事をするから給料を貰うのは当然だ」「課長は係長よりも余計に給料を取っているからそれだけ働くのは当然だ」こういう事になっていきますと、こうした感謝の心は一向に芽生えてこない訳でありますが、その元をたどると子供の頃の我儘が大人になっても続けているのですから、これでは感謝の心が蘇ってきません。

私たちはこうして物を食べています。五穀、魚介類、草木、果実、一切のものに対しても太陽の光が無かったならば果物は実る事はありませんし、人間関係でも感謝ということは大変重要なことです。

この他、親子の問題、夫婦の問題、社会の問題、色々な例題は尽きませんが、正しい見方というものは具体的には現われている様々な事柄を深く堀下げて、物事を正しく認識する事から生まれてきます。

もし私たちの両親が無条件で私共を生んで下さった、育てて下さったとゆう事を、一体誰が出来るでしょうか。

中々こういう無償の心というものは、ただでしてもらっても当り前だとか、よく親が勝手に自分を生んだなどという言葉を使いますが、こうした慈悲と愛という神の心があればこそ出来ることなのです。

私たちの肉体というものは先祖から受け継がれて現実に私たちの魂の乗り船として与えられ、あの世から出てくる時には、「お願いします。こうしていただきたいと思います」という事が先に立っているのです。

この世に出てくるとただでやってもらうものですから、「やってくれるのが当り前だ」と思ってしまいます。

現在は、特に相続なんて事になると、親から財産を相続するのは当り前の考え方を持っております。

大部分の人がそう思っております。そして、しかもこの相続者の兄弟姉妹が何人もあると、それを奪いあう血みどろの喧嘩をします。

私はたとえ親からの財産でも、兄弟からの財産でも、こういう事を相続するという事は、あんまりは好まないのです。

ところが現代ではそうじゃなくて、この兄弟が死んでも、俺も分け前を貰うのだというような考え方を持っておる人々が多いのです。

これは法律というものは、決して不公平な条件であってもなくても、私たちはただより高いものはないのだという事を皆さんよく知って下さい。

ただより高いものはないのですよ。

そしてそういうものを通して、やはり魂の修業があるという事を知らなければなりません。親から相続をして、私たちは貰うのは当り前だという心を持っております。

私たちはただで貰うと、自分が今度は努力という心をそがれてしまって、自分が求めた扞や血で働くという心を忘れてしまいます。

ただで貰った程感謝がないですから、例えば競輪や競馬で儲かった人々の姿を見れば一番良くわかります。まだ入ってくるという安易な気持ち。それが重なり重なって今度はこちらからどんどんどんどん出してしまいます。

そうして自分の身を滅ぼすような事が、ギャンブルの世界で随分類例が沢山ございます。

こういう事で身を持ち崩すと、なかなか人間は浮かび上がる事が出来ません。これはただより高い物はないということなのです。

こういう事を考えて、一昨日の少女殺しや何かでも、自分がサラ金を借りてかっこの良い事をスーッとやってきて、その借金を返すのに人の命まで奪わなければならんという間違った考え方を持ってしまいます。

最初は借りた金というのは、「借りる時の恵比寿顏(えびすがお)、返す時の閻魔顔(えんまがお)」という例えがありますが、こういう事は私共にとっては大変貴重な心の教えではないかと思います。

公平な見方はそうした認識から生まれ、正しい見解に至る訳であります。

この地上界の事象、(現われている様々な出来事)は全て人の想念、心の動きから生じており、現われの姿はその結果なのであります。

ですから物事の原因は人の心にあるのであって、現われている様々な現象が原因ではなく結果なのであります。

従って結果だけを捕え、それをあれこれ判断すると間違いの元となります。まず現われている結果を見たならば、その原因について堀下げていくことが『正見』のポイントです。

ですから私たちは必ず一日の生活の中で、こういう事に必ず一度や二度はこういう心に遭遇する事があります。

その原因とは何か、今ここにある結果とは何か、これを私たちは自分の心に問うてみる必要があるのです。

自分の心は、本来は自分の自我意識の自分であってはなりません。私たちの心に問う事なのです。

正見の目的は物事の正確な判断であり、そうしてそれに基づく正しい見解を持つ事であります。

以上を要約すると、まず感謝の心を持つ事。

事象一切の原因は人の想念、心にあって現われの世界は結果であります。

既成観念を白紙に戻し、物事の真実を知るようにします。正見の反対は邪見になります。常に第三者の立場に立って自我の思いを捨て、正しく見る努力をするという事になります。

自我意識を除けば大体物事の見方というものは出来るようになるものでございます。

正しく見るという事は、まず見る鑑識眼を養うという事なのです。

この鑑識眼がないと、やっぱり感謝もなければ報恩の行為もなくなり、全てはやはり今まで通りの思想や環境や習慣、教育によるところの普通の常識というものに幻惑されてしまうという事を考えてみて下さい。

1989年(平成元年)10月「心のつどい」東京研修会より
編集:飛騨高山心のつどい

 

この記事を書いた人

アバター画像

村坂 克之

小又接骨院・鍼灸院の院長です。柔道整復師、鍼灸師の国家資格にて施術を行っています。屋号の小又(こまた)は、先祖の小谷屋亦治郎(亦=又)に由来します。親指シフトユーザー。
詳しくは院長略歴をご覧下さい。