村上宥快和尚さん【1918年(大正7年)10月8日〜1991年(平成3年)3月12日・享年72歳】のお話をまとめました。
【正しく定に入る】正定(しょうじょう)
正しく定に入るべし。
正定とは反省をいいます。私たちは自己反省を通して物の道理を理解され、同じ間違いの愚かさが解放されてゆきます。
反省こそ神が人間に与えた慈悲であり愛の能力といえましょう。
動物にも本能、感情はありますが、反省という理性の能力、知性の働きは人間をおいては他にはありません。
この意味で、正定の反省は人間だけが神から与えられた特権であり、その特権を生かしてこそ進歩があり、無限の調和に向かう事が出来るのです。
反省は正見・正思・正語・正業・正命・正進・正念の七つの規範について行ないます。
反省の尺度を持って今日一日を振り返り、物を正しく見たか、思ったか、語ったか、働いたか、生活したか、念じたか、友をいたわったか、と反省をします。
人の個性と業(カルマ)というものは一見似ているようですが違うのです。
しかしこの個性と業(カルマ)の違いをまず発見する努力、そして反省をしてみたいものであります。
それにはまずざっと遡って十歳から二十歳まで、二十歳から三十歳まで、三十歳から四十歳までという様に年代別に自分の反省をしていきますと、自分の業(カルマ)はどのようなものであり、全体の中での自分のあり方、自分の役割が明らかになると思います。
皆さんがこの反省をするという事は、絶えざる反省という事が自分の使命や目的、あの世での神に約束をした事を自分の心に思い浮かべる事が出来るようになって来るのです。
ですから反省というものは怠らず、焦らずに反省というものをやって下さい。
年代別に反省をしていきますと人それぞれの性格が大体三歳頃から十歳ぐらいまでにほぼ形づくられていることに気が付きます。
例えば仮に短気の性格があっても、人を傷つけ対人関係、仕事上の関係、家庭の関係の中に気まずい思いをしてそれが原因で、せっかくのチャンスを逃してしまうという場合も、短気の性格は作った年代と大体この頃が多いのです。
末っ子で育ち、周囲からチヤホヤされると知らぬ間に我儘が身に付きます。
自分の主張を家庭では大抵通して来ますと、さて成人して社会に出ると社会では家庭とは違い、そういう思い通りには運びません。
自分の希望が叶えられぬならば心の中は平安でありません。
子供の頃の我儘は、最初は身近な家庭で爆発し、家の中で怒鳴ったり夫婦喧嘩になったりします。欝積した気分は、今度は対人関係や仕事上の関係まで発展をしていきます。
こう見てきますと、短気の性格は自分の我が思うように通らない時に起きて来るものであり、それは子供の頃のチヤホヤ育てられた我儘の生活に原因があったという事です。
もちろん人によってその短気の性格を二十代、三十代に作り出す場合もあります。
両親に早く死に別れ、子供の頃から非常に苦労し、あるいは家が貧しい為に苦労して、二十代、三十代、その苦労が実を結び、やる事成す事が図に当って来ます。
人のやる事がまどろっこくついに怒鳴り散らしてしまい、若いうちに苦労した中小企業のワンマンの経営者にこういうタイプが多いのです。
原因は二十代、三十代にありますが、しかしこれでも反省をしていきますと小さい時の苦しみが身につき、人を嫉み、恨み、憎み、心が内在しており、成人してからそれが短気という型で変化して出る場合があるからです。
苦労をして成功をした人は人を信じない事が多いのです。
家庭の愛情生活が不足していますからどうしても孤独になりがち、自分の意見を押しつけたり、短気という性格になり易いのです。
このように短気という性格の一つも人それぞれの原因は異なりますが、年代的に見ると大抵は子供の頃に作られ、成人につれて様々な枝葉となって変化している事に気付きます。
業(カルマ)というものは自分自身にとっても他人にとってもプラスになる面は少なく、いわゆるその人の欠点、短所という形で表われて参ります。
業(カルマ)はもともと執着の想念であり、それは家庭環境、教育、思想、習慣、友人などの影響を受けて作られていきます。
食物一つとっても業(カルマ)となり、例えば肉食が血液を酸性にし寿命を縮める原因を作る、だから植物性の物しか食べないとします。
世間の見方は人の見方、そうしてその価値判断が自分自身で気付かぬ内に偏見を持つようになります。
つまりこれは良い、これは悪いという事に物事を簡単に割り切って断定するようになっていきます。
良い悪いの判断は大事な事ですが、それが自分の浅い経験を土台としている場合、自分には当てはまっても人に当てはまらないという場合も多いのです。
イエス・キリストも肉類も結構食べたし酒も強かったようです。釈迦も食べ物にはこだわらず出された物は何でも食べたものです。食べ物は何でも食べて良いと言っても現在病気の人、肉体的に欠陥のある場合は食生活を規制しなければなりませんのでそういう人の場合は別であります。
いずれにしろ人の性格、業(カルマ)というものは、私たちの生活環境によって知らぬ間に作られます。その中でしか自分を見いだす事が出来ないとすれば魂の前進はあまりはかばかしくゆかないでしょう。
また業(カルマ)というものは常に輪廻しており、短気という性格は普段は出ないとしてもその場面に会うとつい出てしまう性質を持っています。つまり短気の輪廻です。
そこで反省し、その原因を突き止めたならば、・勇気と努力と知慧を使って、二度三度と同じ事の繰り返す事をないようにしてゆくことです。
原因がわかりその原因に翻弄されていた事に気付きますと、その原因によって影響を与えてゆきます。
人々とそうしてきた神に対して詫びなければならない気持ちになるものです。悔い改める心こそ業(カルマ)を超えてゆく足場になるからです。
もし本当に悪かった、あるいは感謝と報恩の気持ちが湧いてこないとすれば、その人の反省はまだまだ本物とは言えないのでしょう。
己の欠点、短所、業(カルマ)というものは、自分を傷つけ人も傷つけてゆくものです。
私には反省をする材料が無いという人によく出会いますが、そういう人は反省が浅く、反省というものがどうゆうものかまだわかっていない人だと思います。
恵まれている人に限って反省する材料が無いというようですが、ではその恵まれた環境はどのようにして作られたのでしょうか。
夫か両親によってか、夫は社会に出てどう働いているのか、両親はどうして財を成したのでしょうか。
このように考えてくると、今の自分の環境をただ盲目的に是認し、その中に安住している自分を発見するはずです。
恵まれた人々が考えた場合、現在の自分の立場に疑問が湧いて来るはずです。このように反省の材料は山ほどあるのです。
反省の仕方としては各人が工夫してやってもらっても良いのですが、一つの方法として、まず現在の欠点の短長をノートに書き示し、その一つ一つについて年代を追って原因をつきとめます。
もう一つやり方は、両親と自分、夫と自分、子供と自分、兄弟姉妹と自分、友人と自分、上役と自分、後輩と自分、得意先の人々と自分、隣人と自分というように、他と自分を反省させ、これまで生きて来た様々な状態の中で自分の心がどのように働き動き、どのような態度で過ごして来たか、これを前と同じように年代別に追ってゆく方法です。
ものを対比しながら反省をしていきますと比較的自分本位の傾向から離れ客観的に真実を捕える事が出来ます。
長い人生航路の間には、人は一度や二度自分を反省する機会を持っているものです。大抵は自分本位の思いに流され自分をかばってしまうと、これは中道の反省とはいえません。
中道の反省は自分の在りのままの姿、内在する正直な姿に照らして、両親に対して自分はどう対処して来たのでしょうか。
両親の献身に対して、自分はどれほど孝養してきたか、少し大きくなって自分の同級生なり幼児園の同クラスの人々というように、一人一人誰かにどういう影響を受けて、この人にどういう心を教わったかということ。
反省の材料が無くなった時、一人一人自分が子供の時からの相手というものから自分がどのような影響を受け、どのような事をその人から学び、どのような事から我々がその人に悪感情を抱いたかというようなこと。
こういうような条件を全て皆さんはこれから反省というものに、長い時間をかけて下さい。
生涯の中でどれだけ自分の心というものが修正する事が出来たかという事を勉強する事によって、皆さんの心に多くの条件をはらんでおると考えても過言ではありません。
今私たちの心というものは、今迄は正法というものがわからずにやっていました。
現在は一つ一つ一日一日の反省の条件によって自分の心に生じてくる現象というものがわかって参ります。
そうしたならばこれは悪いと思ったならば即座に修正をする事にあるのです。
悪いと思ったら直す事です。そのままにしておきますと、私たちはついぞそれがマンネリ化して一つの想念帯に大きな厚い壁を作ってしまうという事があります。
この問題というものもよく皆さんが自分自身心の中でその問題を掘り下げていって、自分の欠点というものはこういう事だから人に嫌がられるとか、こういう事だから人から誹りを受けるのだとわかってきます。
それは決して人によって起こされた誹謗や憎しみや恨みではなく、すべて自分の心から生じたものが大部分であるという事がわかって参ります。
この地上界はそうした条件の基に魂の修業をするという事です。
今迄自分自身は悪くない、自分には間違いはないという心で判断をしてきた事が、分析的に考えてみますと、様々な問題は自分に原因があったという事を知っていただきたいと思います。
1989年(平成元年)10月「心のつどい」東京研修会より
編集:飛騨高山心のつどい