村上宥快和尚さん【1918年(大正7年)10月8日〜1991年(平成3年)3月12日・享年72歳】のお話をまとめました。
当時、平成元年(1989年)6月、宇野総理の女性問題についての投稿記事です。
不倫は自覚で抑止を
最近国会の論争の場で「首相の女性問題」といった極めてプライバシーの問題が論議されている。これを根ほり葉ほり、なかば興味本位に露出し、国会論議に持ち出すことはいささか行き過ぎがあるのではないだろうか。
閨房(けいぼう)の問題は宗教の中でも、もっとも慎み深く取り扱われている。
キリスト教のバイブルの中で情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのであると、厳しく戒められている。
この問題は法律以前の問題であると共に、あくまでも内心的なこととして取り扱うべきものであろう。プライバシーを国会などで公言することはこれこそ慎むべきことである。
男女は同権であり、あくまでも当人同士の解決すべき事柄で、当人が責任をとるべき問題である。神理(真理)宇宙摂理の中で性は種族保存、肉体存続のため、本能として神から与えられたものである。しかし、プラトニック(精神的な)なものでなければならないことは申すまでもない。
最近、性がマスコミや世間で極めて低俗に扱われ、露出的情報によって乱用されている。これは、神の子としての「神性」を逸脱した不完全な表現であり、宗教性の欠如と宗教そのものの理解を見失った姿であることは否めない。
これは大自然の法則を無視したことに起因している。男女の使命と目的をはき違えた平等にある。男性は闘争、女性は平和の中で性の混乱を巻き起こすと昔からいわれている。
宗教は、我が生命を自覚し、宇宙の大生命が、すべて循環の法に従っていることを自覚することである。性の営みもまた宇宙の中で営まれる働きである。
この中に不倫があってはならないが、不倫は自らの自覚で抑止すべきものであり、外圧によって罰すべきものではなかろう。
政治の場に持ち出すことは、モノをわい曲的に取り扱ったといわねばならない。一度犯した過ちが永遠に恕(ゆる)されなければ懺悔(ざんげ)という言葉も出て来ない。
懺悔とは、自己の内心において一度犯したことを、再び犯さないと自己の心を通してその奥底の神の心にお詫びすることなのである。このことが解らぬと、宗教の本質を理解していないことになる。過ち多きが故の人間である。過ちなき人が世の中にいるだろうか。
己の内心から修正することを忘れ、唯悪かった悪かっただけで真に悔い改めたことになるだろうか。自己の内心、神の子としての信心はここにあるのだ。曖昧では真の反省でも懺悔でもない。
プライバシーを政治に巻き込み、政争の具にすることによって政治の政治たる由縁を忘れ、混とんとすることこそ、政治を誤らしめることになる。
よく他人の行為、行動、現象に捉われ、感情的になって許せぬとか、けしからことを言いがちであるが、誰もが己の心を顧みれば、己の心の内心に積み重ねた想念と行為の塵埃に、うんざりするほど自己の内心は汚れに満ち充ちているものなのだ。
自己の心は、大宇宙の心を心として、神の子として自覚した心を信ずることである。心の曇りを煩悩といっており、この曇りを反省と懺悔によって除去することを真の宗教という。
この世は、心の修行の場である。初めから煩悩の持ちあわせぬ人は一人としていない。それ故、この現象界にあの世との仕組みがあり、それによって私たち人間は生まれ出て来たのだと思う。
初めから浄(きよ)く初めから聖人君子はいないはず。私たちは無限の転生輪廻の生まれ変わりを続けており、魂(生命)の修行は無限の過去から連続していることを忘れてはならない。