村上宥快和尚さん【1918年(大正7年)10月8日〜1991年(平成3年)3月12日・享年72歳】のお話をまとめました。
仏教関連の雑誌や新聞への投稿記事です。
人類調和の中核を目指すが日本人の使命
八正道の思惟こそ仏法の解明の真実道、仏典を学ばぬ恩師から指摘、無学なればこそ正法を信じ得た。
人は神の意志を体して出生、安らぎの世界具現へ心磨く。
神と人間
神の意識は仏法では般若波羅蜜多という。キリスト教で神は光なり、六角の光で太陽を透して来るものである。
だから、神という字を分析してみると日を貫く光(示)ということになる。この光が一切智(絶対の智恵:現代語でいえば宇宙意識の記憶装置)である。心の煩悩の曇りを完全に取り除き意識線がこの記憶装置と調和された人を観自在と申すのである。
観自在は本来如来の位置を示すもので菩薩ではない。しかしこの意識の記憶装置は万物万象の意識の宝庫である。
万物の霊長である人間の思ったこと、行なったことは総て記録されるのである。求聞持(くもんじ)の法等で一切の文義を暗記することなども、これを物語るものである。
私たちの思念が、善を思う、悪を思うことについては、善は光に通じ、悪は暗に通ずるので、間の思うことに制約があることは当然だ。よく「罪を憎んで人を憎むな」とはこのことである。善には善、悪には悪の結果があるべきことを知る、因果の法則で、当然自分の蒔いた種は自分で刈りとる結果となる。
しかし人間はこの世だけではないのだ。この世、あの世を通して、原因結果の連続である。ここで業(カルマ)ということになる。転生輪廻という循環の法則は思想ではない。真理(神理)なのだ。
従って仏教思想という言葉が使われるが、仏法はあくまで神理であるから、仏法は思想ということは妥当ではない。
般若波羅蜜多は慈悲と愛の心で宇宙に遍満する一切の記憶装置であり、エネルギーの原動力であり、光明の心であり、これが神というものである。六波羅蜜とは六角の光の波動であることを私たちは確認している。私たちの心自体は神の分身であるから、昔から精神といっている。また神の子、仏の子とは、これらの実態を踏まえての言葉であろう。
私たち人間の五官の機能から採り入れる事象、現象は、神経を伝って脳細胞でコントロールされ、意識の中心である心に送られる。心は想念を主体とし、感情・本能・知性・理性に大別され、意思に送られて更に大脳皮質まで送られる。
これまでが色即是空の言葉で色の世界である。これから先は空間の霊子線につながる。霊子線なるものは、赤・青・黄・緑・紫の強力な光線によって、この周囲はゼリー状のエネルギーが躍動している。これが六親眷属の魂の兄弟たちの世界に繋がっている。更にこの意識線は総括されて神の心に集中している。
神との意識の調和度によっては、様々な現象を霊視することが可能になっている。私たちは自分の心を使うにしても、掘り下げたり拡大することに無関心でいては、心に発展性のないことを知るべきである。
こうして全宇宙の万物万象の意識と同通すると、人間はおろか草や木の精とも対話ができるようになる。これが観自在(アボロキテーシュバラ)である。
本来観自在と観世音をゴッチヤにしているようだが、観世音菩薩は個人の名称で、観自在は如来の位置にある人を指している。神の意識に記憶装置されていることを理解できる人である。