村上宥快和尚さん【1918年(大正7年)10月8日〜1991年(平成3年)3月12日・享年72歳】のお話をまとめました。
思いと行いは同じ
想念という条件について、マタイ伝には男女の関係をこのようにいっているのです。
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
異性を見た時に、そういう心を起こせば相手を犯したのと同じだということをいっているのです。
マタイ伝の、キリスト教の中に出てくる条件なのです。ですから、思うことが、いかに重要なことであるかを知って下さい。
高橋信次先生も、いろんな人の心というものを観て、「何日何時には、こういうことがありましたね」「あなたは競馬場へ行き、馬券が当たらなかったので、その馬券を破いていましたね」こういうことが、信次先生の意識の中には出てくるのです。
これを観自在というのです。
だから人間が、高橋信次先生を誤魔化すことはできないのです。信次先生と旅行してホテルへ泊まると、信次先生に心を観られるのが怖いという方がいました。
私は怖くないですから、先生はそういうことを、承知しておられますので、私は安心して信次先生と起居を共にしたのです。
私たちは家という隠れ蓑があり、物の影という隠れ蓑があるから色々なことをしています。
本来、四次元の世界、五次元の世界からこの世を見る、いわんや高橋信次先生のように九次元からこの世を覗けば、人間の心はどんなに隠してもわかってしまうのです。
だから、わかった人に預けておくのなら、これこそ安心ではないですか。だから、後ろで色々しても駄目なのです。
やはり、本音と建前ということを正しく使い分けをするのではなくて、本音と建前というものを善なる方向に一つにしなければならないのです。
過日、ある俳優が癌で亡くなりましたが、本音と建前が違うのです。だからお芝居が上手なのです。
「流す涙がお芝居ならば、何の苦労もあるまいに」(東海林太郎のむらさき小唄より)といいますが、芸能に生きる人は、お芝居だけで生きているから、あのような死に様になるのです。
本音と建前は、一貫して善なる方向に進行していかなければならないのです。これが正法なのです。
どんなに私の前で綺麗事をいっても通用しません。