村上宥快和尚さん(大正7年10月8日〜平成3年3月12日・享年72歳)のお話をまとめました。
己心の魔(色魔・動物霊・地獄霊という魔について)
魔というものは執着なのです。執着という条件があるから魔に魅入られるのです。
人間は、女性が男性なしでも居られませんし、男性が女性なしでも居られません。
しかし、お互いに人格を考えたときに、人間はプラトニック(精神的なつながり)を神から与えられているのです。
ところが色魔という条件になると、人の夫であろうと、人の妻であろうと、そんなことを構わなくなってくるのです。これは、いわゆる性交というものに一つの執着があるからなのです。
あるいは、人が憎いという場合に、「目の敵だ」というのは執着なのです。人を許せない心は、自分の心も許してないのです。
私たちが、このような執着で心を縛っていては、本当の心というものの解放はありません。
ですから魔というものも、色魔(しきま)、天邪鬼(あまのじゃく)、屁理屈(へりくつ)、色々あります。
金銭や物質に執着をする上において、人を傷つけ、殺しても、人の財産を取るというのは、これは魔です。
魔のいたすところなのです。
魔というものは、色魔や、何であろうと私たちの邪魔をするのです。人の良くなることを邪魔をするのです。
いわゆる、邪魔(じゃま)とは、邪(よこしま)な魔と書くのですから、人の喜びを喜びとして感じられない人たちの執着なのです。
魔に取り憑かれた人は、人が悪くなると、魔が微笑むというように、人の悪くなった環境を見て喜んでいるのです。
こういう人たちがいるのです。これは執着なのです。ざまぁ見ろというのも一つの執着です。
人の意識の働きというものを許すことができなかった、ヒットラー、スターリンなど、人の自由を自分たちが弾圧したのです。そうして自分の意に沿わない者は、片っ端から殺したのです。
こういう人たちの行くべき道は、これは日本では豊臣秀吉がそういう状態を持っています。あるいは織田信長もそうです。自分の意志に沿わない者は、ことごとく、やっつけてしまうのです。
スターリンは、イデオロギーを実践するために、それに反する人々を片っ端から殺したのです。あるいはヒットラーが、民族主義によりユダヤ人を殺戮したのです。
日本でもそのような例があったのです。
そうした執着を持ち、何でも自分のものにしたという人々の落ち行く先は無間地獄というのです。無間地獄は執着のどん底なのです。
ですから、このような人々は、そういう所へ行って自分自身が苦しんでいるのです。
魔というものは、人々の失格や失敗、そういうものを斜(はす)で喜んで見ているような人は、魔界からコンタクト(接触)を受けているのです。
やはり、人の喜びを素直に喜べる人、人の悲しみを、自分のものとして取り除いてやる方法が、魔と正反対の、「善我」「真我」の条件なのです。
ですから魔というものは、人の喜びを喜べないという心が魔なのです。人の悲しみを、ほくそ笑むのも魔なのです。
しかし、これも、自分の心の中に魔と同通する条件があるのです。
これを「己心(こしん)の魔」というのです。
ですから、日々の反省禅定にて、「善我」「真我」に心を持っていかなければなりません。
1990年(平成2年)10月15日 東京研修会にて