村上宥快和尚さん【1918年(大正7年)10月8日〜1991年(平成3年)3月12日・享年72歳】のお話をまとめました。
金銭の修行
私は金銭的にルーズでありました。
そんなもの、結果さえ辻褄が合えば良いじゃないかという考えでした。現在の世相は金銭関係が非常に綿密にできています。
金銭にだらしがないよりも、持ったことないお金ではどうしようもなかったのです。
急に東京のお寺へ来て、持ち方を周囲から教育されたのです。金銭関係の条件は一番大切なことの一つですから。
約二十年近く、私的な金銭と公的な金銭という面において訓練させられました。
今、立派な本堂ができていますが、XX億X千万円前後の収支で、建立ができたのですが、後で帳面を見ましたら、担当の会計士がびっくりしたのです。
建設費用の誤差は一割位までは大目に見てくれるのです。ところが一割ではなくて、XX億何千万の、千円札2枚、1,740円の誤差がありました。
これは会計士自体がびっくりしてしまいました。これは一つの奇跡だっていって、会計士が家に飛び込んできたのです。
その前に税務署が來まして、お手伝いをして下さる人の報酬があるものですから、それを調べに来て、何も計算したものは無かったのですが、貯金通帳を金銭の窓にしていたのです。
税務所員の大たちに通帳を見せたのです。そして計算したところ、XX億何千何百万の収支の中で、千円札2枚まで誤差がなかったのです。普通こんなことはできないのですね。神技でない限りできないのです。
私は、総代方に切磋されている頃、決算報告は間違いがないか、あるかということを、言われたことがあります。間違いはありますといったのです。そうしたら、この野郎舐めやがっていうのです。
その頃はお寺から見れば、この野郎です。向こうは皆、もう六十以上の大です。私は三十代でした。舐めるなっていうから、いや舐めません。あなた方の顔を舐めてもしょうがないから舐めないっていったのです。
その時の総代さんは郵便局長でした。私か、お宅でも公金をお預かりするでしょう。毎日毎日一銭一厘間違いない生活が続いておりますかって、逆に言い返したのです。
そうしたら、この野郎、生意気なことを言いやがるなっていうのです。
そのような切磋を受けてきたから、最後の宗派から抜け出す時に金銭的な問題がなかったのです。
私にその経験がなかったなら、正法は説けなかったでしょう。やはり説くには、説く順序、手段があるのです。
後で考えてみて、なるほどなあ、このように、自分の魂の修行の過程があるのだなということを、初めてわかったのです。
藪から棒に、一朝一夕にして、物事は自分の肌身に付くものではないのです。正法も同じなのです。学んだからといって、そのまま身に付くわけではないのです。
人間の世の中には色々と、他人であれ、身内であれ、問題が仕組まれているのです。そういう時に私たちは、問題の鍵を握っているのは自分の心の中なのです。
例えば、家庭が不調和になるとか、あるいは病気になったとかいう条件です。
正法というものを皆さんにお話しするには、まず自身の、正法の心の調和という問題が、帯同していますから、自分の心を直すようになったら相手も変わってくるのです。
私はまさか、東京のお寺へ入り勉強するとは夢にも思わなかったのです。この世の中は体験の世の中なのです。
色々と体験をして、あの世に還らなければならないのです。
体験をした意識だけは、あの世に持ち帰れます。金銭を持ち帰ろう、財産を持ち帰ろうという不届きな心を持てば、地獄という条件が立ちはだかり、あの世に還ることはできないのです。
皆さんもあの世に還る時に、マイホームというような考え方を持ってご覧なさい。自分の持ち物であの世へは行けません。
この世の物質は、世紀の大金持ちでも、あの世へ還る時には塵一つたりとも持ち込めないのです。
持ち込もうとすると抵抗が起き、地獄へ行ってしまいます。
物質や経済に執着を持つと、地獄へ行くという結果を招きます。