村上宥快和尚さん【1918年(大正7年)10月8日〜1991年(平成3年)3月12日・享年72歳】のお話をまとめました。
死んだままの姿で
これは昭和54年(1979年)5月21日です。野外禅定の時に、これは、鎌倉時代の梶原景時(鎌倉初期の武将、源頼朝の臣、平家追討に功があった)という男が、私の前に出てきたのです。
「お前、俺を知っているだろう、助けてくれよ」と言うのです。それから二年後、あの伊豆の長岡で座禅をした時に、再び私どもの前に出てきたのです。
「俺はこいつらに謀られたのだ」と言って出てきたのです。その時、私がじっと意識の中で観ていると、首をはねられた男が、この首の皮がべったり引っ付いているのです。
意識の世界は八百年前も現在も同じなのです。
昔は断罪する時に、自分の足を切らないために、首の皮を一枚残すことになっていました。
断罪をした時のままに、彼の首の皮が残っていたのです。鮮やかな血痕が引っ付いているのです。
信次先生は、当時のまま表現できるだけの観自在の意識を持っているのです。その意識を、先生の方便により私は見せてもらったのです。
意識で観たら、反対側に、将几という腰掛けに掛けた、烏帽子を被った男が、二、三人並んでいるのです。そうして首を切るのを見ているのです。
そしたら、「俺はこいつらに謀られた」と言うのです。これも因果応報という条件があるのです。
因果応報とは、「お前、人のことを、とやかく言うけど、お前自身が、源氏を滅ぼした張本人ではないか」と言ったのです。
したら、黙ってしまったのですね。範頼や義経を雪隠詰にして殺したのは、梶原景時が讒奏(密告)したからなのです。
八百年前のことを、このように意識で観ることができるのです。
あの世には八百年、九百年は同じです。次元という世界では同じなのです。だから、意識がそのままで保持されていれば、変わらずにいるのです。
そうしたことが、人間の心の、意識のエネルギーは不滅だということなのです。その時その時の意識の原点が、そこに残っているのです。