村上宥快和尚さん【1918年(大正7年)10月8日〜1991年(平成3年)3月12日・享年72歳】のお話をまとめました。
芸術
最近は頭の毛を逆立てて、心を掻き回すような音楽を聴きますが非常に感情的なのです。
私たちが自分の心という条件が調和されてくると、そのような音楽はあまり良い響きを持っていません。あるいは、絵などの芸術にしても同じです。
過日、陶芸展を初めて見た時に、バイブルが焼けただれたさまを陶芸に表現したものがありまして、気持ちが悪くなってきました。
本来、芸術というものは、私たちに調和や安らぎを与えるものなのです。
ピカソの絵でも、何十億も出して買う輩がいるのです。猫の頭や、魚の骨を描いて、あれが世界一の芸術であるというのです。
それを、芸術だと思っているのは頭がおかしいのです。私は、ああいうのを見ると吐き気がします。
だから、ピカソの絵を見て素晴らしいと思うのは、見ている人自体がわからないのです。挙句には、描いている本人の頭がおかしくなってくるのです。
芸術とは、拝見して清々しい気持ちになるのが本当だと思います。考え込むようではおかしいのです。
私は書道を二十年程していました。
現在、書の中で臨書というのがあります。先生なら先生の真似事をずっーと書いているのです。
そして、真似事が上手くいけば大賞に与るのです。これを見ていますと、展覧会へ行くのが億劫になってきたのです。
ところが、評論家という人々は屁理屈をいうのです。これは、当代ない表現の方法であると何とかいう、そういうことを平気でいうのです。
評論家は、本当に価値観をどのように見ているかわからないものです。地獄界で夢を見ていたような評論をしているのです。
あれを芸術とは思っていませんが、この頃は本当に芸術の集まりが一杯あります。これは、どうしてかというと、人に見せよう、人の関心を買おうとする意識があるのです。
自分の心の正常化をはかり、物の調和という条件を表現するのとでは随分差があるのです。
現在、芸術は堕落をしてしまいました。
書聖といわれた、唐の代に王義之(おうぎし)という方がいました。この方は、いわゆる書の聖人であるといわれたのです。
この人の意識をあの世から呼び出して、「あなたは日本にお生まれになったことありますか」と聞いたら、「ええ、私は横山大観です」と答えました。
そして、「前衛芸術とか、抽象芸術というものはどう思いますか」と聞いたら、「あれは芸術ではありません。芸術というものは、人の心の調和と安らぎがはかれる、この感覚が作品に表現されるのが本当の芸術です」と答えました。
横山大観の条件を聞いて、芸術家とは、おおいに調和と安らぎを与えることが芸術の本質であると思いました。
そういう点においては、現代の芸術は、人の関心を買うために、何か違った表現をしなければならないのは、ここに至っては脱線をしています。
これは本当の芸術ではありません。
それは自分の心の調和をはかってないから、表現力というものは、人の心を呵責(かしゃく)なく突いたり、剌したり、弄(もてあそ)んだりしている、その心の状態が表れてしまうのです。