村上宥快和尚さん【1918年(大正7年)10月8日〜1991年(平成3年)3月12日・享年72歳】のお話をまとめました。
反省も臨機応変に
反省ということについても、自分自ら守護霊にお願いをして、この条件を体得していく必要があるのではないかと思います。
まだまだ、この材料の素材というものは無尽蔵(むじんぞう)にあるのです。
人間は一朝一夕にはいきませんが、神との対話により、神に誓う心があったならば、必ず自分の心を全うすることができます。
ですから、あまり霊的な現象に結びつけてはいけません。結びつけていると、段々癖が出てきまして、全てのことを霊的に考えるようになります。
本当に心は、自分自身が明らかに掌握している条件でなければならないのです。
私たちがその原因が掌握できない場合は、一旦、脇において、今度は別なことを反省してみるのです。
すると糸口が掴めることがあります。
ここが糸口だと思ったのが、あちらの方が糸口のことがありますし、マンネリ化して心の中で堂堂巡りしますと、なかなか自分のカルマから離脱はできません。
八正道というものは心の中の問題ですから、全部関連性を持っているのです。
それで、一箇条だけの条件にまつわる場合もあるし、正しく思う、正しく念ずるというような条件にまつわる場合もあります。
あくせくすると、焦りだけが心の先に立ってきます。これでは本当の反省になりません。
現代の共産主義の解放という言葉と同じです。
解放するといって、人間の意志を束縛してしまいます。解放するのでしたら、なぜ戦いという問題がここに膠着するのでしょうか。
私たちは、心で静かに考えることによって、反省というものができてくるのです。
信次先生のおいでになられた頃でも、反省をすると心が小さくなるからやめようと質問する人がいました。このような勘違いをしている人たちもいたのです。
先生に多いのですが、善の心でも、これをしなくてはいけない、やらなくてはいけないのだという、自分の心の中で脅迫していることがあります。自分の心を縛ってしまうのです。
恐怖にかられるような瞑想をしていたのでは、何もなりません。
やはり反省をして、自分の欠点を見つけて、見つけただけでもこれは大変な収穫なのです。
それを修正していく努力が大事であり、常日頃、この努力の条件の中で、私どもの心が日常生活に適うようになるのです。
それは誠に気持ちの良いものでありますし、私なども、この頃は、あまり不調な心を想起することがありません。
つまらないことに自分の心を気配りをしないことです。
病人の見舞で、心配する顔をして病人の側へ行く人がありますが、あれではよくありません。心を配らしてはいけないのです。心配という心は良いことではないのです。
私たちは少なくとも、自分の肩の荷が下りる反省をしなければなりません。いつも肩に一物、手に荷物という条件でいたのでは、肩も凝ってしまいます。
徳川家康ではありませんが、「重荷を負うて遠き道を行くがごとく」といいますが、そんな荷物は持たないことです。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如しとは – コトバンク
あの言葉は大変響きが良いようですが、正法ではあまり良くはないのです。
この荷物を背負い込まないようにして、地上界の生活をして下さい。
思い出の追想では反省になりません。
ああしてこうして、こうしてああしてなんて、いつも同じところを堂堂巡りするのです。追想録では自分の心の疲れが取れないのです。
その疲れを癒すには、余計なお荷物を背負い込まないようにするのです。