村上宥快和尚さん【1918年(大正7年)10月8日〜1991年(平成3年)3月12日・享年72歳】のお話をまとめました。
あの世で見守る、守護・指導霊
現代宗教の中の戒律は、慰めものと同じなのです。
自分が拝んだから、皆に知られないで済むだろうと、慰めの宗教をしているのですから、これは宗教ではありません。
現代の宗教が、なぜこうした心に到達しないのは、徹底した自分の心の追求を自分自ら行わないからなのです。
しかし、追求とは、自分の心を苛めるのではないのです。
悪かったことを修正するのです。これ以外に何ものもないのです。
信次先生は、悪いと思ったことは、再び二度も三度も同じことをやるなと言っているのです。
「心のつどい」で行う研修会は、そうしたことを通して自分の心を徹底的に追求する場なのです。
自分の心を苛めるのではありません。悪かったことは直すのです。
間違いを、自分の心が、この辺でいい加減にしておこうかという考えでは、進歩も進化もないのです。
現代の宗教が腐れ縁になってきたのは、自分の心を知らずにマンネリ的な生活をしているからなのです。
守護霊や指導霊は客観的なのです。
私たちが悪かったと思うことは、そこに心の存在を認めてきますと、守護霊や指導霊が心を修正することを命じます。
しかし、中には、守護霊や指導霊がつけなくなることがあります。
私たちがノイローゼになったり、アレルギーになったり、このような心になった時には自分の心についてこられなくなります。
ですから、気違いとかノイローゼとかいう人に対しては、あの世の守護霊も指導霊も手も足も出なくなるのです。
こうして、守護霊や指導霊は、私たちの善なる心を活かすために協力をしているのです。
また、諸天善神という方々が、私たちの心を修正するために教えているのです。
表面で見ては、守護霊、指導霊、諸如来、諸菩薩、大宇宙の神の意識には気がつきませんが、これらに守られているから悪いことができないのです。
諸天善神は人間が善なる心を起こした時、間違いを生じた時、救い上げてくれるのです。お不動様や摩利支天とかいいます。この世の文言とは意味が違います。
それに背けば、泥地獄でも、どこの地獄でも、行くしかないのです。これは、自分自身の心ですから、しょうがないのです。
正法は、人のために行うのではありません。
人の悪口ではないのですが、間違っているところは間違っていると、私は言いたいのです。それだから遠慮も会釈もないのです。
私の守護霊自体が諸天善神で、法の番人ですから厳しいのです。
私の心を盗めば、盗んだ条件だけ、背負いものをしなくてはいけないのです。
あの世で、私たちに見え隠れに色々と指導してくれる、諸如来、諸菩薩、諸天善神、守護霊、指導霊、こういう方々に、日々、事無きを得ていることを、感謝の心を持たなければなりません。
神と直通している、自分の心に問うてみるのです。これを行うことにより、私たちは、進化、進歩を続けていくのが『心行』なのです。
心行は何を教えているかというと、こうした問題を通して、心のあり方を教えているのです。