村上宥快和尚さん【1918年(大正7年)10月8日〜1991年(平成3年)3月12日・享年72歳】のお話をまとめました。
意識の段階
私たちの意識がどれくらい精密度を持っているかで、あの世でものを判断する時の能力にも表現力にもなるのです。
あの世では、如来や菩薩は船底型の大きな光を持っています。
あの世での意識の評価は光の量の区域だということは、光の強い人ほど物の観察能力や体験能力の多い人なのです。
これを菩薩あるいは如来といいます。キリスト教では光の天使といいます。
現代の人びとは、キリスト教と仏教とでは恰好の良い方を選んでいるのです。恰好などは関係ないのです。
自分の心は、神の心をどれだけ理解しているかで、後光、光背の光というものが違ってくるのです。意識の条件により人との条件がわかるわけです。
ですから、自分より意識が上の人は光が強くて見えないのです。
この世では、大学を出て勉強した人が偉い世界なのですけど、あの世へ還ったら関係ないのです。
私も、高橋信次先生の神理を聞いているうちに、この世で偉かった人や、宗祖、仏祖はどういう所にいるかということを、一部始終見ることができたのです。
この世では、内閣総理大臣になった人が偉いのかと思うと、ドス黒い声で、「おーい、まさどん」という声を出しているのです。
先生が、池田総理の意識をあの世から呼んだ時のことです。あの世へ行くと偉くないのです。
しかし偉い人もあるのです。例えば、リンカーンやキング牧師は光の天使です。
良寛様は、子供と童心に帰って良い所に住んでいるかと思ったら、地獄界なのです。あの人は、子供に近づいて後家さんとねんごろになっていたのです。今でも畜生界にいます。私はびっくりしました。
お寺の人たちは本当の引導を渡さないものですから、地獄霊や自縛霊はそこここに充満しているのです。ですから、紫の衣や袈裟を着ている人に飛びついて、その人が中風になっているのです。
そんな実例を見ますと、この世の判断能力や判定が、いかに不完全であるかということがわかってくるのです。
お大師様が地獄霊であったということもあります。
お大師ということは、天皇陛下の師匠という名前ですから、大師の位を貰うのです。これは人間が作った大師なのです。光の量ではないのです。光は必然的に変わります。嘘も隠しもないのです。
来世は意識だけになった世界なのです。今のように肉体はありません。
肉体はなくとも、それと同じような条件によって現象化されてくるのです。あの世では、次元の違いとは光の量の区域です。
私たちが、どれだけ神の心と自分の心の調和をはかれるかという問題です。それが後光なのです。光背なのです。
学問できたからとか、頭がいいからという、こんなことは光の段階には関係がないのです。
ですから、くまなく自分の心のあの世と遮断している意識エネルギーを磨いていくことが大切なのです。心というものは、そういう進化の過程の勉強をしているのです。
神仏と表裏一体の諸霊とは、キリスト教でいうと大天使、仏教でいう如来ということです。その頂点にある人たちは、神の意識という宝庫と私たちの意識が疎通している人です。
仏像でも後ろの後光に宝塔がついています。これを多宝塔といいます。神との直流のアンテナですから、釈迦、イエス、モーゼしか、この条件を持っていません。
それゆえに、釈迦、イエス、モーゼは、この世に出た時に、自分自らが悟らなければならないのです。
悟るということは、神の意識と自分の意識は、全く不離一体であるという意識に到達することです。薬師如来とか、毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい)とか、こういう人びとはまだそこまでは至っていません。
毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい)という人は、あの世に還ってから自分が高い世界に案内されていった時「私がこんなところに座っても良いのですか?」と言われました。
あの世は座席が光の量で決まってしまうのです。調和されているほど、上の意識、上段界に入るのです。それだけ浮く力があるのです。
浮く力ということは、光の量が大きいのです。