放送から20年がたった「映像の世紀」を、最新のデジタルリマスタリング技術(高画質化)によって、画質・音質も新たにハイビジョン版としてよみがえらせました。細部まで映像が良くなっています。
放送内容を書き出しました。動く世界史として素晴らしいです。
映像の世紀 第6集 独立の旗の下に
祖国統一に向けて、アジアは苦難の道を歩んだ
アジア諸国は長く欧米列強に支配され、日本もその後支配権を競った。第2次世界大戦で日本が敗北すると、アジアの人々は悲願だった祖国独立に立ち上がった。インド独立の父ガンジー、巨大国家中国を束ねた毛沢東、ベトナム独立の指導者ホー・チ・ミンなど、アジアの指導者たちの苦悩と闘争の歴史。列強による植民地支配の実情や独立運動の変遷を、半世紀にわたり、貴重な発掘映像とともにたどる。
引用:「映像の世紀」デジタルリマスター版 第6集「独立の旗の下に」 – NHK
敗戦により日本が掲げた大東亜共栄圏の崩壊し、アジア独立のため、中国の毛沢東、ベトナムのホー・チ・ミン、インドのマハトマ・ガンジーの活躍
イギリスのインド統治
イギリス領南アフリカ
フランス領インドシナ(現ベトナム)
日本の朝鮮半島支配
パリ和平会議
上海租界
上海租界 – Wikipedia
治外法権により守られていた、東洋のパリと呼ばれていた
立ち上がる孫文
孫文 – Wikipedia
奴隷同様に扱われている同胞を見て三民主義を説く
ホーチミン登場
ホー・チ・ミン – Wikipedia
コミンテルンに参加する、ソ連主導、秘密工作員としてアジアで活躍する
黄埔軍官学校の蒋介石と周恩来
黄埔軍官学校 – Wikipedia
孫文が造る、コミンテルンを招く、強い革命軍を造る必要があると説く
台湾では孫文が作った校歌を国歌としている
この軍隊が後の国民党軍の主力となる
黄埔軍官学校の人物一覧 – Wikipedia
26歳の周恩来、毛沢東は面接官、
ガンジーの非暴力闘争
マハトマ・ガンディー – Wikipedia
インドは多宗教国家
偉大な魂=マハトマ
抵抗運動として糸車で糸を紡ぐ、糸車がインド国旗に
イギリス製品のボイコット
イギリスへ旅立つガンジー
インドの内乱を鎮めるために呼ばれる
孫文の葬儀
59歳の志半ばで死亡
死去
この頃より孫文はガンに侵されており、1925年、有名な「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」との一節を遺言に記して(実際には汪兆銘が起草した文案を孫文が了承したもの)療養先の北京に客死し、南京に葬られた。その巨大な墓は中山陵と呼ばれる。
霊枢を北京より南京城外の中山陵に移すにあたり、31日国民政府中央党部で告別式を行い、国賓の礼を以て渡支した犬養毅が祭文を朗読[10]。 霊柩は犬養毅、頭山満の両名が先発して迎え、イタリア主席公使と蒋介石と共に廟後の墓の柩側に立った。
上海クーデター
上海クーデター – Wikipedia
蒋介石は共産党に脅威を感じ殲滅を指揮する、国民党と共産党は決裂
ロンドンのガンジー
ロンドンで熱烈な歓迎を受けるが、イギリスに裏切られる
イギリスによる裏切り
1914年に第一次世界大戦が起こると、イギリスは将来の自治を約束して、植民地統治下のインド人に協力を求めた。ガンディーはこの約束を信じ、インド人へイギリス植民地軍への志願を呼びかける運動を行った。
しかし戦争がイギリスの勝利に終わっても、自治の拡大は、インド人が期待したほどの速度では進行せず、またドイツからの援助を受けていた一派による蛮行を抑えるため、インド帝国政府は強圧的な「ローラット法」を制定するにいたる。
さらに1919年4月13日には、パンジャーブ地方アムリットサル(シク教の聖地)でスワデーシー(自分の国の意で国産品愛用)の要求と、ローラット法発布に対する抗議のために集まった非武装の市民に対して、グルカ族およびイスラーム教徒からなるインド軍部隊が無差別射撃し数百人を虐殺した「アムリットサル事件」が発生した。この一連のインド帝国政府の態度は、ガンディーに「イギリスへの協力が独立へとつながらない」という信念を抱かせるようになった。
満州国皇帝溥儀の来日
日本の大陸進出
満州国
満州国 – Wikipedia
李香蘭(りこうらん)
延安の毛沢東
革命の拠点
延安の知名度を向上させた事件に有名に長征がある。長征の最終目的地となった延安では、毛沢東が延安の窑洞を拠点に抗日戦線の指揮を行い、これらの事跡によって革命の聖地とされている。
第2次上海事変
この後、対抗する蒋介石と毛沢東が共同戦線を張る
1944年アメリカ軍が延安に来て、毛沢東がアメリカ軍を武器の援助を申し出る
日本の国策映画
国策映画 – Google 検索
東条英機首相ジャワ島訪問、スカルノ大統領、朝鮮同胞も戦列へ
ベトナムのホーチミン
カオバン省、ベトナムに戻る、ソ連のカメラマンにより撮影
カオバン省 – Google 検索
インド独立運動の指導者たち
中国の内戦勃発
パリ平和会議のホーチミン
植民地の代表として
パリ講和会議 – Wikipedia
インドシナ戦争
アジア諸国の独立
ヒンズー教徒とイスラム教徒の対立
ガンジーが再び登場するが、分離独立の道を選ぶ
インド、パキスタンの分割独立
ジンナー側がパキスタン建国(イスラム教)
ネルー側がインド建国(ヒンズー教)
混乱の中、難民は1500万人以上になる
大混乱、衝突、そして虐殺
そして両地方ではヒンドゥー教徒地域のイスラム教徒はイスラム教徒地域へ、逆にイスラム教徒地域のヒンドゥー教徒(およびパンジャーブではシク教徒)はヒンドゥー教徒地域へ、それぞれ強制的な移動・流入による難民化を余儀なくされた。
このとき短期間での一千万人以上もの人口流入によって生じた大混乱のため、特にパンジャーブ地方では両教徒間に数え切れないほどの衝突と暴動、虐殺が発生、さらに報復の連鎖が各地に飛び火し、一説によると死者数は100万人に達したとされる[5]。このとき生じた両者の不信感そして憎悪が印パ関係の後々まで影響することとなる。いっぽうカルカッタではガンディーの尽力により虐殺が抑えられた。
ガンジー暗殺
暗殺
1947年8月のインドとパキスタンの分離独立の前後、宗教暴動の嵐が全土に吹き荒れた。ガンディーは何度も断食し、身を挺してこれを防ごうとした。しかし、ヒンドゥー原理主義者からはムスリムに対して譲歩しすぎるとして敵対視された。
1948年1月30日、ガンディーはニューデリーのビルラー邸でヒンドゥー原理主義集団民族義勇団の一人ナートゥーラーム・ゴードセー(英語版)(नाथूराम गोडसे)らによって暗殺された。
3発のピストルの弾丸を胸に撃ち込まれたとき、ガンディーは自らの額に手を当てた。これはイスラーム教で「あなたを許す」という意味の動作である。そして、ガンディーは「おお、神よ」(「ヘー ラーム हे राम」)とつぶやいてこの世を去った。78歳であった。国葬が行われ、遺灰は、ヤムナー川とガンジス川と南アフリカの海に撒かれた。
中国共産党軍北京入城
国民党軍はアメリカ軍の援助が無くなったので敗北する
中国人民解放軍 – Wikipedia
ディエンビエンフーの決戦
第一次インドシナ戦争中最大の戦闘。ベトナム人民軍とフランス軍合わせて約1万人の戦死者を出した。同戦争の大きな転機となり、フランスはベトナム撤退を余儀なくされることになる。
ディエンビエンフーの戦い – Wikipedia
南ベトナム解放民族戦線 – Wikipedia
中国から大量の武器援助を受ける
勝利に沸くハノイ
バンドン会議
画像は子供を抱くマハトマ・ガンジー
引用元:「映像の世紀」デジタルリマスター版 – NHK