村上宥快和尚さん(大正7年10月8日〜平成3年3月12日・享年72歳)のお話をまとめました。
事故死した子供の供養について
なぜ死というものがあるのでしょうか。
私たちに死がなかったら、地上界に人間が溢れてどうしようもなくなります。
これは肉体というものが真実ではないのです。意識というものが全部、神様から、太陽を通してくる光によりつながっているのです。
ですから私たちの意識が本物なのです。肉体は、意識即ち魂の乗り舟なのです。
若くして亡くなる場合があります。
例えば、一本の木があります。一本の木で病葉(ワクラバ)があって、すぐ風で吹かれて芽のうちにもぎ取られてしまう。これと同じなのです。
そういう時には、その人の心も家族の心の不調和という条件があるのです。
それに気づいたなら、お母さん、お父さんが、自分の心というものを調和してお子さんに話しをしてあげるのです。
自分が正法を実践して、神の子という条件を自分自身が体得したならば、それを話してあげるのです。
今までは自分自身の心が独立しているように思っていたでしょうけど、私たちはこうして、神様から分離した意識なのです、ということを教えてあげるのです。
だから高橋信次先生は、魂まで親が生むのではないということを教えています。
縁があって親子という条件で、私たちがあの世で約束をして、魂の乗り舟である肉体を提供します、ということを約束したのです。
その中で私たちは、この親子というものの情愛というものを育むのです。
しかし親子という条件は、この世に出てきますと、子供に問題が噴出すると自分の命までも提供しようという犠牲的な精神があります。
これは間違いです。肉体は提供しましたが魂は別なのです。そこを勘違いをしないで下さい。
ですから、子離れ、親離れができない人々が多いのです。意識が違うのですから、やがては離れていきます。
だから、いつまでも子供に執着を持っていますと、かえって浮かばれません。
浮かぶということは、諦(アキラ)めをつけることなのです。
諦(アキラ)めを断念と一緒にしていますが、諦(アキラ)めるということは、言葉の帝と書くのです。最高の神理ということです。
ところが諦(アキラ)めることを、「もう、しょうがないよ」思っています。
断念をすることと、諦(アキラ)めということの違いをわかっていないのです。
神理ということは神の理法です。神理とは宇宙の摂理を説いたものなのです。
ですから、いつまでも子供だと思っていますと執着になります。人間とはこういうものだという理解をして悟っていけばよいのです。
その執着を持つたままあの世へ還りますと、地獄という世界を自分で体験するのです。地獄という世界は、地の極と書きます。
神理というものは神の理法というのです。諦(アキラ)めも神理なのです。
心というものは死ぬものではないのです。永遠なのです。
「心行」の中に書いてあるように、私たちは、この世に生まれ出てくるには、両親を縁として地上界に出てくるのです。
あの世へ還れば、子供であっても他人なのです。今生は、親子の約束にて生まれただけなのです。
だから、よく読んで聞かせてあげるのです。
しかし、一番大事なことは、『心行』に、拝むものでも、あげるものでもない、これを理解して、行うものである、と書いてあるように、行いがありませんと聞かせてあげても意味がないのです。
行いとは、八正道による反省禅定です。
これがありませんと、神理というものが諦(アキラ)かになりません。
1989年(平成1年)12月21日 高山精舎月例会より