放送から20年がたった「映像の世紀」を、最新のデジタルリマスタリング技術(高画質化)によって、画質・音質も新たにハイビジョン版としてよみがえらせました。細部まで映像が良くなっています。
放送内容を書き出しました。動く世界史として素晴らしいです。
第7集 勝者の世界分割
東西の冷戦はヤルタ会談から始まった
アメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソ連首相スターリンによって開かれたヤルタ会談は、ソ連の対日参戦決定と日本軍捕虜のシベリア抑留、朝鮮半島の米ソによる分割統治という悲劇をもたらし、それは東西冷戦の始まりともなった。東欧で強引な共産化が推し進められる一方、アメリカでは苛烈な赤狩りが猛威をふるった。東西冷戦はついに、朝鮮戦争で火を噴く。そして世界は二つの陣営に分割されることになった
引用:「映像の世紀」デジタルリマスター版 – NHK
ヤルタ会談の3巨頭
1945年2月、リヴァディア宮殿
ヤルタ会談 – Wikipedia
ソ連の対日宣戦を黙認することを同意される
チャーチルはソ連に対して既に危機感を持っていた
独ソのポーランド侵攻
アメリカがソ連に武器援助
ポーランド侵攻 – Wikipedia
カティンの森事件 – Wikipedia
第二次世界大戦中にソ連のグニェズドヴォ近郊の森で約22,000人のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者がソビエト内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された事件。「カティンの森の虐殺」などとも表記する。
NKVD長官ベリヤが射殺を提案し、ソビエト共産党書記長スターリンと政治局の決定で実行された。
「カティン(カチンとも。Katyń)」は現場近くの地名で、事件とは直接関係ないものの、覚えやすい名前であったためナチス・ドイツが名称に利用した。
ワルシャワ蜂起
バルカン問題
極東密約
ヤルタ会談/ヤルタ協定/ヤルタ体制
日本の降伏後の処遇の会議
アメリカがソ連に対日参戦を促し、ソ連の北方領土の占領を承諾した
朝鮮を独立させるが連合国の信託統治にする
カイロ会談
カイロ宣言 – Wikipedia
台湾を中国に返還、蒋介石の処遇
ソ連の東欧侵攻
独ソ戦 – Wikipedia
ポーランドの共産化、スターリンを解放者と
ポーランド亡命政権を逮捕
ルーズベルト死去
エルベの誓い
エルベの誓い(エルベのちかい)は、第二次世界大戦末期の1945年4月25日に、ナチス・ドイツを壊滅させるために東進を続ける連合国のアメリカ軍と、西進を続けるソ連赤軍がドイツ東部を流れるエルベ川の沿岸、ザクセン州トルガウ(Torgau)で初めて出会った事件を指す[1]。これはベルリン陥落の1週間前であり、トルガウはドレスデンとマクデブルクのほぼ中間点にあり、終戦後は東ドイツに属していた。
大戦終了に沸く戦勝国
トルーマン大統領辞任
ハリー・S・トルーマン – Wikipedia
原爆の完成
1945年7月16日に完成、その知らせはポツダムにいるトルーマンに直ちに伝えられた
原子爆弾 – Wikipedia
ポツダム会談
ポツダム会談(ポツダムかいだん)は、ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日から8月2日、ソ連占領地域[1]となったポツダムに、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦の3カ国の首脳が集まって行われた、第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談。第二次世界大戦の連合国三大国の首脳会談が行われたのはこれで3度目であり、最後となった。会議の最後にはポツダム協定が策定された。また7月26日には日本政府に対して日本軍の無条件降伏などを求めるポツダム宣言が表明されたことで知られているが、会議の公式日程において対日問題は協議されなかった。
ソ連満州侵攻
1945年8月9日に侵攻
ソ連対日参戦 – Wikipedia
真岡郵便電信局事件
真岡郵便電信局事件(まおかゆうびんでんしんきょくじけん)とは、太平洋戦争末期の樺太の戦いで、真岡郵便局の電話交換手が集団自決した事件である。当時日本領だった樺太では、ソ連軍と日本軍の戦闘が、1945年8月15日の玉音放送後も続いていた。真岡郵便局の電話交換手(当時の郵便局では電信電話も管轄していた)は、疎開(引き揚げ)をせずに業務中だった。8月20日に真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決を図り、9名が死亡した。真岡郵便局事件、また北のひめゆり(事件)[1]とも呼ばれる。
自決した電話交換手以外に残留していた局員や、当日勤務に就いていなかった職員からも、ソ連兵による爆殺、射殺による死者が出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼる[2]。
日本降伏
1945年8月15日無条件降伏
日本の降伏 – Wikipedia
アジア各地には600万人の日本人が残留
8月16日、ソ連のスターリンが北海道の分割統治を提案したが、米国大統領のトルーマンは拒否した
マッカーサー厚木に到着
1045年8月30日
ダグラス・マッカーサー – Wikipedia
朝鮮半島の分割
連絡協議会にて北緯38度にて分割統治
連合軍軍政期 (朝鮮史) – Wikipedia
アメリカの繁栄
荒廃するドイツ
チャーチル「鉄のカーテン」演説The Sinews of Peace (“Iron Curtain Speech”)
March 5, 1946.
鉄のカーテン – Wikipedia
Winston Churchill – The Sinews of Peace – Online Speech Bank
ビキニ環礁での原爆実験
クロスロード作戦 – Wikipedia
焼け野原の東京
極東国際軍事裁判
パール判事
極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国が派遣した判事の一人で、判事全員一致の有罪判決を目指す動きに反対し、平和に対する罪と人道に対する罪は戦勝国により作られた事後法であり、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」[1])で知られる。
東西ベルリン
ソ連のベルリン封鎖
西ベルリンが封鎖状態になり航空機を使い物資輸送
ベルリンの壁 – Wikipedia
2つのドイツ
ドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が誕生
ドイツの歴史 – Wikipedia
ソ連原爆完成
中ソ同盟成立
アメリカの反共運動
マッカーシー上院議員
レッドパージが行われる
ジョセフ・マッカーシー – Wikipedia
若き日のロナルド・レーガン
アメリカを追われるチャップリン
朝鮮戦争勃発
テレビ演説するトルーマン
韓国援助を決定
ハリー・S・トルーマン – Wikipedia
画像は、左からチャーチル英国首相、ルーズベルト米国大統領、スターリンソビエト連邦首相
引用元:「映像の世紀」デジタルリマスター版 – NHK http://www4.nhk.or.jp/P3681/