村上宥快和尚さん【1918年(大正7年)10月8日〜1991年(平成3年)3月12日・享年72歳】のお話をまとめました。
我慢と忍耐
我慢と忍耐とは一見似ているようでも全く違うものなのです。
正法は、この我慢と忍耐とを区別する鑑識眼を持っていないと、自分の心を誤った方向に持っていってしまいます。
我慢することは、いつかは爆発します。
それは、今までしてきたことが一気に崩れてしまうからです。我慢は、仇を討つとか、仕返しをすることが底意にあり、それを自分の心に貯め込んでいくと、積り積もっていつかは必ず爆発するものであり、抵抗(心の曇り)が強ければ強いほど爆発力が強いものです。
徳川家康は、「人生は重荷を背負って坂道を行くが如し」と言ったといいますが、せっかく登ってきた坂道を後戻りしては、下り坂をカラカラと下ってしまうことであり、勢いがついていますから元の場所よりも下の方へ戻ってしまいます。ここからまたやり直すことは、以前よりもっと困難なことであり、なかなか元のところへは戻れないのです。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如しとは – コトバンク
これに対して、忍耐とは慈悲と愛とが根底にあり、反省という努力の積み重ねがあるから、そこに進歩が生まれるのです。
芸能人は人気商売でありますから本音と建前が違っています。どうしても自分をよく見せようとしてカッコよさを求めるために、本音と建前が違い、自分の心の中に曇りが生じて内臓の病気や癌を造り出してしまいます。
病気は、大抵、自分の心の受け取り方、持ち方が神の心に合致していないときに作られるものなのです。
人から褒められたり、お世辞を言われたりして自分が特別であるとか、偉くなったと思う人がいますが、これも誤りなのです。人から褒められても、蔑まれても人間の価値観は変わるものではありません。
自分の心だけが人間の価値をはかる唯一のものなのです。
人にごちそうを差し出しても、その人が食べないと結局自分のところに返ってきてしまいます。これは循環の法則なのです。
人が奉仕するのを見たり聞いたりして、その人がよく思われていると思い、これを妬んだり、恨んだりする人がいますが、これもそうした思いは自分の心の中に蓄積されて、何倍ものスモッグになって自分にはね返ってきます。どんなことでも、比較対象とするのは他人ではなく、あくまで自分の心なのです。
他人をバカにすることも正法から外れており、そのような心は思い上がった心です。他人の動作に幻惑されることなく、自分で自分の心を観ることが八正道の基本なのです。
この地上界は、自分だけでなく、万生万物みな神の心、意識の中で生かされています。
これがパラミタ(波羅密多)の心であり、「重々帝網」という仏教の言葉がありますが、これは、みんな網の目のように係わり合いをもっているのです。自分の心を神の意識まで近づけていくことが仏道なのであり、そのためには慈悲と愛に基づく日常生活の実践が大事なことなのです。
くれぐれも毀誉褒貶(悪口やほめ言葉)で心を動かすことのないようにしていただきたいと思います。