村上宥快和尚さん【1918年(大正7年)10月8日〜1991年(平成3年)3月12日・享年72歳】のお話をまとめました。
諦(あきら)める
私たちの、諦めということは最高の神理ということなのです。
ところが諦めることを、「もう、しょうがないよ」と思っています。断念をすることと、諦めということの違いをわかっていないのです。
神理ということは神の理法です。神理とは宇宙の摂理を説いたものなのです。
ですから、いつまでも子供だと思っていますと執着になります。人間とはこういうものだという理解をして悟っていけばよいのです。
その執着を持ったままあの世へ還りますと、地獄という世界を自分で体験するのです。
地獄という世界は、地の極と書きます。
神理というものは神の理法というのです。諦めも神理なのです。
心というものは死ぬものではないのです。永遠なのです。
『心行』の中に書いてあるように、私たちは、この世に生まれ出てくるには、両親を縁として地上界に出てくるのです。
あの世へ還れば、子供であっても他人なのです。今生は、親子の約束にて生まれただけなのです。
だから、よく読んで聞かせてあげるのです。
しかし、一番大事なことは、『心行』に、〝拝むものでも、あげるものでもない、これを理解して、行うものである〟と書いてあるように、行いがありませんと聞かせてあげても意味がないのです。
行いとは、八正道による反省です。
これがありませんと、神理というものが諦かになりません。
1989年(平成1年)11月21日高山精舎月例会にて