史実では1898年9月10日(明治31年)にエリザベート皇后が暗殺され、1914年6月28日(大正3年)にサラエボ事件が起き皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺されます。
同年7月28日にオーストリアはセルビアに宣戦を布告し、第一次世界大戦が勃発します。
エリザベートが暗殺されてから18年後の1916年(大正5年)に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世も崩御し、2年後にハプスブルク帝国も世界地図から消えます。
エリザベートを最後の皇后、フランツ・ヨーゼフ1世を最後の皇帝と呼ばれる所以です。
参考書籍
デジタル・世界のハプスブルク家
ハプスブルク君主国
ハプスブルク君主国 – Wikipedia
出典:Wikipedia

世紀末ウィーン
世紀末ウィーン(せいきまつウィーン)とは、19世紀末、史上まれにみる文化の爛熟を示したオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーン、およびそこで展開された多様な文化事象の総称である。

出典:Wikipedia
エリーザベト (オーストリア皇后/バイエルン公女)
身長172センチ、体重50キロという、現代でもモデル体型です。
エリーザベト (オーストリア皇后) – Wikipedia
フランツ・ヨーゼフ1世妃で「シシィ」の愛称をもつ悲劇のヒロインエリーザベト皇后(1837年 – 1898年)は、ギリシア語・ラテン語だけでなく、シェイクスピア作品を原語で読め、なおかつその一節をエリザベス朝期のドイツ語で言い表すことができたといわれる。
稀有といえるほど語学の才に恵まれていた「シシィ」であったが、特にハンガリーの風土と文化を心から愛し、規則ずくめの宮廷を嫌ってハンガリー各地を旅行した。
彼女は、たとえば反ハプスブルク的なマジャール人の心さえ動かしてしまうくらいハンガリー語に通じていたという。

出典:Wikipedia

皇帝のお気に入りの肖像画だったと彼のデスクに置いてあった(1864)
ヴィンターハルター画伯
出典:Wikipedia

出典:Wikipedia
フランス病
ミュージカル・エリザベートでは、シシィがフランス病に罹った?とされていますが、購入した書籍で調べた範囲では不明です。
結核には罹りましたが転地療法で治りました。
シシィ博物館
Sisi Museum – Hofburg | Wien | Österreich
皇妃のデスマスク、結婚前夜の宴用のドレスのレプリカ、暗殺された時に着ていた喪服や凶器等、貴重な資料が数多く展示されており、彼女をより身近に感じることができるでしょう。
引用:【保存版】エリザベートゆかりの地まとめ – NAVER まとめ
credit: (3) Signature of the Empress Sissi. | Sisi | Pinterest
エリザベートのドレスをデザインした人
シャルル フレデリック ウォルト
(世界初のオートクチュールデザイナー)
Charles Frederick Worth – Wikipedia, the free encyclopedia
出典:Wikipedia
エリザベートの肖像を書いた画家
フランツ・ヴィンターハルター

出典:Wikipedia
フランツ・ヨーゼフ1世(オーストリア皇帝)
エリザベートの夫
フランツ・ヨーゼフ1世 – Wikipedia

出典:Wikipedia

出典:Wikipedia

出典:Wikipedia
フランツ・ヨーゼフ1世の友人・愛人(諸説)
紹介したのはエリザベート本人と言われています。
女優カタリーナ
カタリーナ・シュラット – Wikipedia
出典:Wikipedia
フランツとエリザベートが結婚式を行ったアウグスティーナー教会(ウィーン)
Augustinian Church, Vienna – Wikipedia, the free encyclopedia
出典:Wikipedia
1854年4月24日、ウィーンのアウグスティーナー教会(英語版)で枢機卿ラウシャーのもと、午後6時半に結婚式が挙行された。
シェーンブルン宮殿の「鏡の間」で祝賀舞踏会が行われ、招待客は3000人に及んだ。
この結婚によって皇帝の人気は高まり、夜に皇帝夫妻が馬車で町を巡遊すると、沿道には大勢の人々が詰めかけた。

出典:Wikipedia

出典:Wikipedia
エリザベートの子女
ゾフィー(1855年 – 1857年)
ギーゼラ(1856年 – 1932年)
ルドルフ(1858年 – 1889年) オーストリア皇太子
マリー・ヴァレリー(1868年 – 1924年)
ゾフィー(第一王女)
ゾフィー・フォン・エスターライヒ – Wikipedia
出典:Wikipedia
妹ギーゼラとともに母親のハンガリー訪問に同伴された際、妹ともども病気に罹って下痢と発熱に苦しんだ。ギーゼラは回復したものの、ゾフィーはそのまま亡くなった。死因は後年になって、その下痢と発熱が続いたという症状から、チフスだったと推測されている。
引用:ゾフィー・フォン・エスターライヒ – Wikipedia
ギーゼラ(第二王女)
ギーゼラ・フォン・エスターライヒ – Wikipedia
Gisela von Österreich – Wikipedia
出典:Wikipedia
ルドルフ (オーストリア皇太子)

出典:Wikipedia

出典:Wikipedia
ルドルフの教育係、レオポルド・ゴンドレクール伯爵
祖母がルドルフに付けた教育係のレオポルド・ゴンドレクール(ドイツ語版)伯爵
Leopold Gondrecourt – Wikipedia

出典:Wikipedia
マリー・フォン・ヴェッツェラ
ルドルフ皇太子の愛人
マリー・フォン・ヴェッツェラ
出典:http://www.onb.ac.at/services/presse_23385.htm
マイヤーリンク事件

出典:http://www.onb.ac.at/services/presse_23385.htm
出典:Wikipedia
史実では皇太子ルドルフは「マイヤーリンクの山荘」にマリー・フォン・ヴェッツェラを連れていき、そこで共に亡くなります。
当時、暗殺の疑念がありましたが、マリー・フォン・ヴェッツェラの遺書が見つかりました。
オーストリア国立図書館の情報
本ブログ記事掲載後にオーストリア国立図書館やAFPBBのリンクが変更になり、改めて調査し再構成をしています。Twitter・Facebook・ブログにご利用の場合はでは引用元である、オーストリア国立図書館、AFPBBを表記されるようにお願いします。画像のみの引用は直ちに削除して下さい。
- Startseite – Österreichische Nationalbibliothek
- http://data.onb.ac.at/rec/AL00636503
- オーストリア皇太子と心中した女性の遺書を発見 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News

出典:http://www.onb.ac.at/services/presse_23385.htm
母親ヘレンへの手紙にはこう記されている。「お母様/私のしたことをお許しください/私には愛を拒むことはできませんでした/殿下のご意志に従って、アランドの墓地で殿下の隣に埋葬していただきたいのです/私にとって生きるよりも死に至る方が幸せなのです」
引用:国際ニュース:AFPBB News オーストリア・ウィーンの銀行の金庫室から発見された、126年前にオーストリア皇太子と心中したマリー・ベッツェラ男爵令嬢の遺書
しかし、2人は一緒に埋葬されることはありませんでした。

出典:Wikipedia
現在、カプツィーナー納骨堂に、ルドルフ、ヨーゼフ1世、エリザベートの3人は安置されています。

出典:カプツィーナー納骨堂 – Wikipedia
マリー(第三王女)
マリー・ヴァレリー・フォン・エスターライヒ – Wikipedia
出典:Wikipedia
ゾフィー (オーストリア大公妃)

ヨーゼフ・カール・シュティーラー画、1830年
出典:Wikipedia
1848年革命の波がオーストリア帝国にも襲いかかると、ゾフィーは君主政を護持することを強く決意した。
大公妃は才知と精力を備えた有能な女性であり、息子のフランツ・ヨーゼフ1世の治世初期には、ウルトラモンタニズムに代表される保守主義の庇護者として、オーストリア帝国の政治に絶大な影響力を及ぼした。
帝国の臣民たちは、ゾフィーを密かに「宮廷内のただ一人の本物の男だ(den einzigen Mann bei Hofe)」と評していた。
ゾフィーが皇帝の母として大きな権力を持った時代に、抑圧されたハンガリー人はゾフィーを激しく憎悪した。
ゾフィーを嫌っていた嫁で姪の皇后エリーザベトは、機会あるごとに姑を嫌うハンガリー人を贔屓にすることで、姑に反抗しようとした。
引用:ゾフィー (オーストリア大公妃) – Wikipedia
出典:Wikipedia
後列、左から右に立っては皇帝フランツ・ヨーゼフ自身、フェルディナントマックス大公と彼の妻ベルギーのシャーロット、ルートヴィヒビクター大公とカール・ルートヴィヒ大公です。
左から右への前列には、彼女の子供ルドルフ皇太子とギゼラ大公妃です。
その後ろにエリザベート皇后、ゾフィー大公妃とオーストリアのフランツ・カール大公です。

出典:Wikipedia
エリザベートの父
マクシミリアン・ヨーゼフ・イン・バイエルン – Wikipedia
出典:Wikipedia
オーストリア=ハンガリー帝国
オーストリア=ハンガリー帝国 – Wikipedia
国章
出典:Wikipedia
皇帝一族の不幸
民族問題もさることながら、ハプスブルク家にとってもこの帝国の末期は悲劇の連続だった。
まず1863年、ナポレオン3世の誘いに乗って、フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアンがメキシコ皇帝に即位するも、フランス軍がメキシコ大統領ベニート・フアレスの徹底抗戦によって撤退を余儀なくされたため、マクシミリアン皇帝はそのまま取り残され、二重帝国成立と同じ1867年に銃殺刑に処された。
1889年には、皇太子ルドルフがマイヤーリンクで謎の情死事件により落命した。
皇后エリーザベトはこの事件以来いっそう頻繁に旅行するようになるが、1898年に旅行先のスイスで無政府主義者により暗殺された。
皇帝は激しく落胆し、以後それまで以上に政務に没頭するようになる。
そして1914年のサラエヴォ事件で、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺された。
ハンガリー戴冠式

出典:Wikipedia

出典:Wikipedia
ハンガリー革命
ハンガリー革命 (1848年) – Wikipedia
出典:Wikipedia
エリザベートが避暑で訪れた場所
実際、エリザベートは結核に罹り、転地療養で避暑地へ行きました。それが成功し結核は治りました。
ギリシアのコルフ島に絢爛豪華な城「アキレイオン」の建設
ケルキラ島 – Wikipedia
出典:Wikipedia

エルンスト・ハーターはシシィ庇護の下に作成しました
エリザベート生前最後の写真

晩年、撮影を唯一許した写真
出典:皇妃エリザベート―ハプスブルクの美神 (知の再発見双書) カトリーヌ クレマン (著), 塚本 哲也 (監修), Catherine Cl´ement (原著), 田辺 希久子 (翻訳)
ルイジ・ルケーニ
エリザベートの暗殺者
ルイジ・ルケーニ – Wikipedia

出典:Wikipedia
犯行
本来の目的はイタリア国王ウンベルト1世だったが、イタリアに戻るまでの旅費がなく、次に狙っていたフランスの王位継承候補オルレアン公フィリップは予定を変更し、すでにジュネーヴを発っていた。そこで偶然エリーザベトの居場所を新聞で知り、ジュネーヴのレマン湖でエリザベートを短剣のように尖らせたやすりで刺殺し、逮捕された。
警官からエリーザベトの死を知らされると大喜びし、「俺は心臓を狙った。満足だ」と誇らしげに答えた。
取調べには「ルケーニ程の人間は皇后を殺しても、洗濯女を殺すような事はしない」と供述した。また、供述書には「働かざる者食うべからず」というフランスの古い労働運動のスローガンを引用した。
貧しく不幸な育ち故に、仕事もせずに国民の血税で豪奢に暮らす、権力者である王侯を激しく憎悪し、「王侯を殺したかった。王侯なら誰でも良かった」とも話している。
単独犯であるので犯行の栄誉は自分一人が負うべきと力説し、死刑を希望したが、裁判で終身刑の判決を受けた。
11年の獄中生活を送り、独房の中で回顧録を書いた後、ベルトを使って首吊り自殺した。
エリザベートが暗殺された場所
レマン湖 – Wikipedia
photo by オーストリア皇后エリザベートゆかりの地を訪ねて – SWI swissinfo.ch
暗殺されたときに着ていたドレス
ルケーニに刺された箇所は、左胸の衣装がほつれて白く見えるところです。
左の第4肋骨から心臓に達する傷だったそうです。
credit: 皇后エリザベートの死| 皇后シシィと彼女の家族
凶器はヤスリで、先が三角形になるよう入念に研いであった。
ヤスリなどで人が殺せるのかと思うかもしれないが、ルケーニの一突きはエリザベートの胸部皮下八・五センチにも及び、肋骨を砕いて肺から心臓を貫通、ただし、経路は狭かったため、血液は一気に噴出せず、心機能が停止するまでにはしばらくかかった。
エリザベートがルケーニに刺された後、卒倒するまでに数十メートルも歩くことができたのもそのためだ。
引用:ハプスブルグ家 憂いの美女皇妃エリザベート [Habsburg] – Onlineジャーニー
エリザベートが暗殺されたときに一緒にいたイルマ・シュターレイ伯爵夫人
Countess Irma Sztáray de Sztára et Nagymihály – Wikipedia, the free encyclopedia
英語
Irma Sztáray | Císařovna Sisi a její rodina
チェコ語です。Google翻訳が便利です。

出典:Wikipedia
イルマ・シュターレイ伯爵夫人はフランツ皇帝に謁見し暗殺時の模様を報告します。
フランツ皇帝は伯爵夫人の勇気をたたえ、勲章を授けます。
エリザベートが亡くなった当日の模様
Smrt císařovny Alžběty | Císařovna Sisi a její rodina
エリザベートの死のお知らせ

葬儀の模様

出典:Wikipedia
フランツ・ヨーゼフ1世の弟
マクシミリアン (メキシコ皇帝)
マクシミリアン (メキシコ皇帝) – Wikipedia
出典:Wikipedia
優れた海軍の軍歴ののち、1864年4月10日、フランスのナポレオン3世と帝政復活を望むメキシコの王党派の支援の下、メキシコ皇帝に即位した。
アメリカ合衆国を含む多くの国々は彼の帝国を承認しなかった。
これはベニート・フアレス率いる共和派軍の成功を確かなものにし、1867年に捕虜となり処刑された。
引用:マクシミリアン (メキシコ皇帝) – Wikipedia
エリザベートの従甥
ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)
ルートヴィヒ2世 (バイエルン王) – Wikipedia
出典:Wikipedia
ルートヴィヒ2世は近侍させた美青年たちを愛し、女性を嫌忌していたが、自分と同じヴィッテルスバッハ家の一族であるオーストリア皇后エリーザベトだけには、女性でありながら唯一心を許していた。
彼女もまたルートヴィヒ2世と同じく堅苦しい宮廷を嫌い、逃避行を繰り返していた。
引用:ルートヴィヒ2世 (バイエルン王) – Wikipedia
表紙:オーストリア皇后エリーザベトの肖像(1865年、ウィーン、美術史美術館蔵)フランツ・ヴィンターハルター画伯:髪にダイヤモンドスターの装飾品、ボールガウン姿